利己主義者が不在の『エゴイスト』という映画
映画『エゴイスト』を見てきた。
いわゆるBL ものに触れたいというきわめて不純な動機で
しかも「鈴木亮平さんのBL!」と相当色めき立って
見に行ってしまった。
しかし、
色めき立った気分は映画が始まってわりとすぐに
どうしようもなく重苦しい気分に変化していった。
この作品は
経済格差、学歴格差、貧困、老い、介護、偏見など
現代社会が抱える多くの複合的な問題を
ゲイカップルの視線を通じて描いた非常に重たい内容だったからだ。
「この負のループはどこまで続いていくのだろう……」と
途中から見ているのが辛くてたまらなくなった。
さらに見続けていくうちに
タイトルに反して
この作品には真のエゴイストはいないのではないか、と思うようになった。
でも真のエゴイストって何だろう?と自問しながら見ていた。
そもそも「エゴイスト」とはどういう意味だったのか。
わかっているはずの言葉の意味も怪しくなっていたので
家に帰って改めて調べてみた。
自分のことしか考えない人。自分勝手でわがままな人。利己的な人。利己主義者。
とあった。
やはり思っていたのとほぼ同じ意味だった。
恋愛においては、自分の愛する気持ちを押しつけようとしたり、好きな相手を自分だけのものにしたいなどといった己の我や欲しか考えていない人をさすのであろう。
そして鑑賞前、この映画は当然上記のようなエゴイストについて
描かれているのだと思い込んでいた。
しかし、やはりこの作品には
辞書どおりの意味のエゴイストは存在しないと思い至った。
なぜなら主人公(鈴木亮平さん)も端緒は
愛する人(宮沢氷魚さん)の愛情や肉体を独占したいという気持ちで動いていたと思う。しかし次第に、相手の存在そのものを大切に思い、その家族(阿川佐和子さん)に対しても自分を犠牲にしてでも何かしてあげたいという気持ち(自分のわがままだと主人公は頻繁に言っていた。エゴとわがままの違いについても考えてみる必要があるのかもしれない、でもエゴとわがままでは言葉の響きがぜんぜん違ってくる、わがままの方が主人公らしい気がした。)に変化していく。
そういう無私の心の発露を映画の中で、あえてエゴ(イスト)と定義しているのではないか、と考えたからだ。
その姿は宗教的ですらあった。
(他の登場人物、宮沢氷魚さんも阿川佐和子さんもやはりエゴイストではない、
自分に向けられる無私の愛が嬉しく、心救われる思いでいるのに
それがわがまま?エゴ?ではないかと戸惑い、固辞する姿勢も見せているからである。)
私は心から愛する人に対してここまでできるのだろうか?
主人公と全く同じ立場、経済状態だとしても、
自分は真のエゴイストだからできないだろう。
そのことに打ちひしがれながら主人公を取り巻く事態が収束する気配もなく
息をつめるように物語を追っていたが
幕切れは突然で、本当にさりげないひとコマで映画は終わる。
そのラストシーンがとても美しく胸を打たれた。
そして、ラストシーンのひとコマにおいて
実はこの映画に通底している
ほんのささやかなエゴ(イスト)をすべて表現していたのではないか?
そんな気がした。
でも文字通り、そんな気がしただけかもしれない。
原作も読まず、監督や脚本家、さらにキャストの方の思うことも下調べせず
勝手に語っているのだから。
いろいろ語るのがおこがましいくらい、本当に素晴らしい映画でした。